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夜明けの向こう側第1話

NOVA LANE SHORT STORY

第1話

著者 朝倉 蓮

夜明けの少し前、街はもっとも静かになる。

ビルの隙間に残る光も、信号の色も、すべてが呼吸を潜めている。

れんは、いつもの屋上の手すりに両手を置き、冷たい鉄の感触を確かめた。遠くで、最初の鳥がひとつだけ鳴いた。

眠れない夜には、決まってここへ来る。誰もいない道路を走る車の音。風に揺れる看板の小さな軋み。普段は曲の奥へ沈んでしまう音が、この時間だけは輪郭を持って聞こえた。

ポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。

画面には、送信者の名前がないメッセージが一行だけ浮かんでいた。

「あの歌の続きを、まだ覚えていますか」

蓮は目を閉じた。

あのメロディが、ふいに胸の奥で鳴りはじめる。それは夢でも記憶でもなく、名前のない痛みのかたちだった。

十七歳の夏、誰にも聴かせないつもりで書いた曲がある。完成することのなかった八小節。忘れたふりをするたび、夜の底から同じ旋律だけが戻ってきた。

画面を指でなぞる。返信欄は白いまま、点滅するカーソルだけが言葉を待っている。

「覚えているよ」

声に出すと、吐息は薄い雲になった。けれど文字にはできなかった。答えてしまえば、止まっていた何かが再び動き出す気がした。

東の空が、ほんのわずかに青くなる。

蓮はスマートフォンを伏せ、屋上の端から街を見下ろした。無数の窓のどこかに、今も眠れずにいる誰かがいる。その誰かへ届くなら、未完成のままでも歌う意味があるのかもしれない。

スタジオへ着くころには、街は朝の顔を取り戻していた。

扉を開けると、壁に立てかけたギター、床を這うケーブル、昨夜のまま残された四つの紙コップが目に入る。誰もいない空間で、蓮はマイクの前に立った。

息を吸う。

最初の言葉は、驚くほど自然にこぼれた。

夜明けの向こう側で、僕らはもう一度出会う。

歌声が消えたあとも、余韻だけが部屋に残った。あの日止まった八小節の先に、新しい旋律が続いていた。

机の上で、スマートフォンがもう一度震える。

今度のメッセージには、小さな星の記号がひとつだけ添えられていた。

窓から朝の光が差し込み、マイクスタンドの影を長く伸ばす。蓮は目を閉じ、まだ誰にも知られない言葉を、そっと心の中でなぞった。